自己を知る
私がいつもお昼休みに闊歩する(?)商店街の中ほどに、古い果物屋さんがあります。
古いとあるとおり、オシャレなフルーツを素敵にディスプレイなんてことは当然あるはずもなく
店先には今は懐かしいバナナを何本かづつ転がしていたり、ミカンの季節にはいろいろな種類を
一個からでも売ってくれますし、もちろん地方発送もしてくれます。
問屋さんほど大きくはありませんが、ここのバナナは絶品で私はよく買います。何本と本数指定で
買えることもお気に入りのひとつです。
さて、先ほどのことです。いつものようにお昼にこの前を通っておりますと、たぶん60代であろうかと
思われる女性二人組がかの店先に並べられた柑橘を見ていました。
二個づつ緑のビニール皿にもりつけられ、そんな皿が6つほどあったでしょうか。
女性客の一人が、その皿の一番手前、むかって左側の一個をむんずと掴んで、両手で押さえたり離したりを
繰り返し始めたのです。
この店の女主人はちよっと前までは店先ででんと座って、バナナを持って彼女の前に行くと、今時に
拘わらず、薄いビニール袋ほべりっと剥がしてその中に入れてくれます。もちろん袋代なんてけち臭い
ことは言われたことがありません。
通りすがりの道行く外国人客にも態度は一緒です。英語を話すわけでもないのに、ちゃんと果物の品種の
名前を教えて、お金もらっておつりだして、袋にいれて差し出します。
ありがとうは言いません。私も言われたことはないです。そこも一緒です。
古い電卓で金額を表示しておつりをもらってというのが続いておりましたが、最近は体調がよくないのか
滅多におりません。声をかけても愛想のないおじさんが出てくるばかりなので、私も足が遠のいていました。
ですから、女性客のこの横暴に店の誰も気づかないようなのです。
女性はひとつで飽き足らず、もう一つにも手をかけやっぱりむんずと掴むとぐりぐりと力をいれています。
柑橘の下半分を覆っていた白紙がよれて不格好にずり上がっていますが、おかまいなしです。
心は残りましたが、彼女らがあれを買うなら、さもありなんかと自分に言い聞かせ、私はランチの場所に
急ぎました。そして終えての帰り際
その店の前を通ると、視線は果物台に注がれます。そこには、白紙のよれた柑橘が二個。
緑のビニール皿に歪に並べられてありました。そっと目先で数えてもお皿は6皿。
もちろん買われたものは補充もされるでしょうが、すくなくともそのよれた白紙の柑橘は例のヤツでしょう。
日常のささいなことですが、置き去りの柑橘がなんだか哀れに思われて、思わず・・
あ・・つい
隣の皿の柑橘を取ってしまった私の罪を神様、お許しください。
私は、まだまだ未熟です。そこまでの広い心は持ち合わせていなかったようです。
よれたままの白紙の柑橘はそのままそこにありました。
明日も私はここを通ります。その時もあったら・・心が騒ぎます。
己の近欲な心を恥じます。
どうぞ、これから売れていますようにと祈る私は世俗塗れです。。。