誰のために生きるのか。
タイトル見たら、吉野作造さんの本かと思いますよね(笑)
ちょっと気恥ずかしくなるようなので、どうしょうか迷ったのですが、考えてもこれしか
浮かばず、ええいっ。やっちゃえ!とばかり、堂々とタイトルにしてしまいました。
そもそもの発端は、息子がそろそろ亡夫の年齢に近づき、彼が自分の健康管理にとても気を遣って
いや、ありていに言えば神経質とも思えるようになっていることが話題になったからでした。
「そりゃあ、自分も父親の死んだ年齢に近づいてて来たら、ナーバスにもなるだろうよ。それに
もしかしたら、自分がそうやってもし先に死ぬことにでもなったら、君が可哀想だって思っているのかもよ。」
この家人の一言に私はカチンときたのです。
「私が可哀想なんて思わないわよ。私も思われたくない。子供に親が可哀想なんて思われたら負けよ。負け。」
このあとに、「おっ。もう風邪も全快やね。いつものちょー強気発言」と、ちゃちゃ入れた家人に鉄拳が
飛んだことは、まあいいとして。
他の方はどうであれ、私は親が子供に「お母さんのためだから」とか「お母さんのために・・」なんて
言われて自分のしたいことや、選ぶ道をあきらめたり変えたりされるのは真っ平ごめん蒙ります。
そんなことは死んでも望まないです。
私は私の道を行く。あなたはあなたの道を行け。交わらなくても寄り添わなくても、なににも縛られず
忖度せず自分の決めた道を行け。それが親の望みであると、常々話しております。
もちろん家人にも話しておりますが、ウエット体質の家人はそれがなかなか理解できないようで、
時々こんなことを言います。
息子の方は心得たもので、自分の本心はともかく、上辺は私の言い分を理解しているようには見せます。
本音は私が死んだときでないと見えないと思うので、永遠に垣間見ることはないでしょうけれども。
娘はもっと現実的で、ウエットに見せかけて、中身はドライという実に巧妙な手口を持っております。
それも、よかろうと思います。
「そうなんや。子供たちには自由にしろと言うんや。じゃオレは?」
今日はやけに挑戦的です。
「あなたはダメよ。子供は授かりものだから、天の神様からの預かりもの。一人前にしても私のものじゃない。
でも、パートナーは自分で選んで決めたんだから、最後まで責任もって。」
納得したような、しないような顔をして家人は引き下がりました。
屁理屈と言われようが、なんと言われようが、私には私の理論づけがあるのです。
私は誰のために生きるのか。もちろん私のために生きます。だからもう、他のどなたも私のためには
生きなくていいのです。私のために生きる人間は一人いたら十分です。
こんな偏屈な魔女相談員は、今日も相談電話の受話器を取っています。。。