偏見の戦争観
八月はあっという間に過ぎ去るような気がします。
私達は戦争を知らない世代ではありますが、子供時代、今よりも世間はずっと戦争を
引きずっておりました。
私の母は空襲を逃げ延びた体験者です。
市内の同じ道を通るたび「あそこには焼けて死んだ人が積み重なって・・」いつも繰り返して
おりました。
母は、教養も倫理観にも多少乏しい昔の女でしたが、そこには畏敬が込められていたことは
私も知っています。その時に生死を分けた人たちに、多少の後ろめたさと、生き残りの重さを
込めて話をしていたのだと思います。
いまはそれを彼女のひ孫たちに、怪談話化して聞かせているのは、申し訳ないと思いつつ
「あなたのおかげで、私いまでもここ通るのは厭よ」と毒づいている私は親不孝です。
でも、おかげで私の中では、地元一番の心霊スポットはそこです。
地元には〇〇トンネルだとか△△道場跡地とか、✖✖海岸だとか名だたる心霊スポットがありますが
私の中ではそこ以上のものはありません。
今年はあの戦争の終結から80年というキリのいい時で、戦争特集がNHKで次々と放映されています。
私の子供時代は、まだ生々しく公にできないことも多々あったのでしょうが、今はアメリカの公文書館や
国連の資料などで、知らなかったいろいろなことが明るみに出ています。
そして今もなお、遺族の方の手元にあった個人的な資料が、遺族の高齢化に伴って
各種の記念館や、資料館に収められ、それを目にする機会も得ています。
公平に事実を見るという点では現在のほうがずっと正しいような気がしますが、その資料を
紐解くこちら側の熱量は、ずっと低くなったと思います。
その道の方々の学術的な興味はまだしも、道ゆく人たちの関心の低さは比べるべくもありません。
我が家にしても、娘の家族は知覧に行きたいと言い続けておりました。
娘の夫と長男がひときわ行きたがっているそうです。二人は娘に「行く前に、あの映画見ててよね」
と言っているのだそうです。
あの映画・・どうやら「永遠のゼロ」らしいです。
私も映画みました。岡田クンなかなかの好演でした。ドラマも見ました。向井理さんはちよっと
かっこよすぎ。原作もみました。いい「物語」です。
でも、ずっと知覧に行きたいと願ってやっと実現しょうかと言うときに「永遠のゼロ」では
なにか物足りないのは私の偏見でしょうか。
この原作者のその後の言動や、現在の立ち位置を見るに、やっぱりこの物語は
作り事だと思うのです。その「綺麗に作った物語」というべきなのでしょうか。
もちろん昔も作りごとの戦争美化映画やドラマは沢山ありました。
それを当時の大人たちは時に感涙を流してみていたものです。
そして今、現代を生きる娘の長男や夫には、あの物語の世界が突き刺さるのでしょう。
当時を知らないのは私も同じです。
でも、私は彼らよりは多くの戦争文学を読み、ノンフィクションを漁り、映画もドラマもみてきました。
ジャンルで彼らに劣るものはたぶん漫画だけだと思います。
なのに、「戦争」という出来事を彼らに語れないのです。私の戦争観を言葉にできない。
こんな身近な人たちにさえ。それが悔しいです。自分の非力が。
彼らの戦争観が間違っているとは言いませんが、正しくはありません。
うちの母が私に語った「あそこには・・」には、体験の重みが揺るがせなくあります。
たった一言に私はずっと縛られていたのです。
前にも語ったことですが、そう思うと軽々に「次世代の語りべ」になどなれる
はずがありません。
私は、私の言葉が見つからない限りは、彼らの戦争観を表立っては否定しませんが、
「あさはかだな」と思っています。いいんです。このことが彼らに知れても。
どうせ私は言いたい放題のおババと、身内には認識されています。(え? ここででもですか。
それはしらなかった・・)
生きているうちに、子や孫に自分の言葉で、戦争を語れる日がくるでしょうか。
近年、八月を迎える度にそんなことを思います。。。