この世の果て

2022年10月10日

秋という季節感が年ごとに薄れていくような気がしますがそれでも10月の空は時に抜けるような

青さと高さで爽快な気分にさせてくれます。

過日、私は北海道の果て「野付半島」にいって参りました。

家人はその前に立ち寄った霧多布岬の生ラッコに感激して、帰ってからも会う人ごとに

そのかわいらしさを力説しておりますが、正直な話ラッコ・・肉眼では、黒い塊にしか見えません。

 

携帯写真では無理。たまたま通りかかった写真趣味のおじさまの撮っていた写真見ると、そこには

茶色と黒の縦まだらのラッコが邪気もなく映っておりました。それは可愛かったです。

自分の携帯の黒い塊と、そのおじさまから拝借の写真を見せて「生ラッコ」と証明しながら

感激を話し回っています。

 

もちろん私も生ラッコには心が躍りました。だらだら坂を上り詰めたら佇む霧多布岬の夕暮れの

風景にも感激しました。吉永小百合さんの映画の1シーンのようでした。

 

でも、私の初めからの目的地。野付半島のその荒涼とした索漠たる砂嘴の風景は、私の胸を

ドンと打ちました。

トドナラ(楢の木が立ち枯れになりつつ風景です)の、その滅びの美と、もうすでに多くがただの

湿気た濡木の塊にすぎないトドワラの殺伐とした光景。

音は時々響く野鳥の鋭い声だけです。

 

行きつく先はじめじめと広がる砂嘴の奥深くに続く板を渡した簡素な橋で、行き交うのも

お互いに譲り合うような処です。

青い空の下、風が謬々と吹きすさぶ中に長く続く変形卍の板橋は、この世の果てに続くかの

ようです。

かつて、恐山に行ったときに「あの世とこの世の境界」と思ったことがありましたが、そこには

生死を問わない魂のいくつもの存在がありました。

でも、ここにはそれがない。ただ謬々と吹く風と、たなびく立ち枯れた木々の残骸があるだけ。

板橋の先にはかつてそこが街であったかのような跡が残っているらしいのですが、そういうものが

忽然と消えていく現実がここにはあります。

もう何十年かしたらここはもう砂嘴ではなく、ただの海になってしまいます。

その先行きのなさが、このすべての索漠の源なのでしょうか。

トラクターバスに揺られて帰る私たちを、泥地に水を飲みに来た立派な角をかざしたエゾシカの

家族が、胡乱な侵入者を警戒するように眺めていました。

ここでは見つめられるのは、ニンゲンどものようです。

 

私は河崎秋子さんのファンで彼女の小説はたいてい読んでいます。

その根幹に触れたくて、釧路、根室、別海と来てみたかった。

この荒涼とした野付の先にたって、彼女のことが知りたかったのに、実際に来てみると、

そんなことは一片も思い出しませんでした。

 

確かにここは、この世の果て、です。。。

 

 

 


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