ファンです
いつも入浴中にラジオを聞いています。
私は朝風呂派なので時間にもよりますが、毎日放送の浜村淳氏の「ありがとう」は
長い、長いリスナーです。
番組時間も長いので、通して最期まで聞いたことは一度もありませんが・・
それでも氏の映画案内は秀逸で、これを聞くとどんな映画でも見たくなります。そしてどんな
映画でもそれなりに心に響きます。
あまりの案内の濃さに、もう見に行かんでもええやんとしばしば思うのですが、それでも
終わった頃にはやっぱり見たいと思うのは話芸というものでしょう。
その浜村氏もずいぶんとお年を召されました。
私が若い頃には有線放送の授賞式であの鮮やかな話術で、曲紹介をしていたものです。
正直、最近は滑舌が悪いなとおもったこともしばしばあります。
番組中に資料の新聞の切り抜きを探し続けていることもよくあります。
記憶力という点では驚異と思える力を発揮している同氏でも、最近はあれ??
とおもうような間違いをしていることもあります。
でも、それがなにほどのものでしょうか。
間違えれば傍らの人がそっと訂正すればいいのです。
金・土のアシスタント桜井一技さんなどは、その点たいしたものです。
柔らかく同氏も傷つけず、リスナーにも伝わるように誘導しているのがさすがです。
でも、これは教養番組でも教育番組でもないのです。
娯楽のなかで、同氏がその広く深い教養をちらちらと見せているところが
面白いのです。
浜村氏の古典への造詣はその著書に判るように深くて楽しいです。
映画音楽ももちろんジャズも歌謡曲も「へーこんなものまで」と驚かされることは
しばしばです。
その昔、一度きいたことがあるなというような歌も開陳してくださることもあります。
古いと一刀両断される方もあるかもしれませんが、この昔話を楽しみにしているリスナーが
ある一定数いるのは確かなのです。
過去の記憶を辿れるのは年をとることの楽しみのひとつです。
誰も知らない過去の話を知っているのは、年を経たからに相違ありません。
私だって知っています。
いまもお元気なD夫人が過去にどんなことをしてきたのか。一言居士のようなN氏が
どんな女性遍歴をして今の奥様と結ばれたか。あのネジネジ氏です。
かつてときめいた芸能人はほぼみなさんゴシップまみれです。
ですから、いまそれを忘れたかのような振舞をテレビでみれば「お前が言うなっ」と
秘かに突っ込んでいます。
でも、それも年を経てからテレビ視聴の楽しみです。年を取るというのはそういう愉しみ方も
できるのです。
前置きが長くなりましたが、同氏は先日ハワイで亡くなられたMさんについて何度か
番組で触れられています。私も聞きました。
その時に不適切があったとネットなどでは重罪人のような叩かれていますが、それほどの
ことでしょうか。
Mさんはお父様が時代劇の俳優さんで、私が知っている頃は悪役のちょっとした大物を演って
いらしたことが多かったですが、氏はその人の俳優時代の栄光も語っていました。
Mさんはその子ですから京都の生まれです。
氏も京都の人で、そういうご縁からも氏は決してMさんがお嫌いではなかったはずです。
氏がMさんの死因について、どうしても引かなかったのは、訂正に対する反発ではないかと
私は推測しました。
いえ、これはアシスタントさんが悪いのではなく、本能的なものでしょう。
たしかに貶めたと感じた方はいたでしょう。間違いは訂正すべきでしょう。
でも、みんながよってたかって「間違っている」と責め立てて何か益がありますか。
いつからか、日本の人たちは言葉に敏感になりすぎています。
敏感というより「重箱の隅つつく」ことばかりしている気がします。
ちょっとした有名人が、それは政治家も含めてですが、言った言葉尻を捕まえて
誰かが糾弾しようものなら、その尻馬に乗って、あっという間にみせかけの正義の
輪ができてしまうのです。
「あら、いいすぎちゃったわ。ごめーん」という謝罪は誰も受け入れなくなっています。
言葉の暴力というフレーズが一人歩きしている気がします。
確かに言葉で人を傷つけることは許されることではありません。
でも、そうやってほんわかとお蚕ぐるみの言葉生活をしているから、ちよっとしたことに
折れたり躓いたり、耐性ができなくなっているのではありませんか。
厳しいことは「悪」ではありません。
「愛」こそがその人を躓かせることはあり得るのです。
こんな私が説くことではありませんが、心なしかちよっと元気のなくなった浜村淳氏が心配で
思いつくまま書いてしまいました。
これからまだまだ湯船の中で、同氏の映画案内を聞いていたです。。。