「いいね」の真偽
前にも書きましたが、最近の私は読売新聞の発言小町をある種テキストとして愛読しています。
ひとつの質問テーマにいろいろな人がいろいろな角度からさまざまな回答を出すというもの
なのですが、これだけ読み込んでいくと回答の傾向というのがほぼほぼ見えてきます。
もちろん質問の意図というのも、もう透けて見えるようなものから、これはなに?と
全く見えないものまで多様ではありますが、質問を見て「こうきたか」と思ったら
「こう返すのね」というのは、概ね判ります。
でも、これは最近の傾向であるのでしょうが、こんなことで傷つく??なんて事項はごろごろ
しています。大きな声では言えませんが、うちの身内にもおります。
例えば、発言小町にありましたが、自分が今臨月。夫の姉は長い不妊の末のようやくの妊娠で
自分の二か月後の出産予定。その義姉が自分に「うちの夫は初めての経験だから、あなたの子供で
練習させてね」と言ったのだそうです。
自分の子供を練習台にするなんてなんだと思ってるのよと怒りが沸くのは当然です。夫に零しても
いいでしょう。
でも、言われた時に何も返さないで、うじうじと「こんなことが許されますか。信じられない」と
義姉がまるで人でなしのように不特定多数の同意を求めていることが、私には共感できないのです。
そんなにいやなら、その場で「いやだ」と意思表示すればよかったではないですか。
もしかしたら、義姉はそう深い意味ではなく傍らで見ることも練習の範疇にいれていたかもしれません。
あなたや、あなたの夫を差し置いてまで、新生児のあなたの子を未経験父の義姉の夫が沐浴するなんて
普通は考えられません。
よくあることでは「赤ちゃん抱いたことないのよ。練習させて~」と言いながら、決して抱かない人も
いますよね。いわゆる口だけってやつです。
そもそも、そんなに烈火の如く怒り、不特定多数の人にことの真偽を訴えるなら、なぜまずその当事者に
しっかりと糺さないかとおもうのです。
ここでもし義姉が、あたなの思う通りの答えなら「自分の子を練習台にする親なんていませんよ。
私の子のことなんだと思ってるんですか。」と問い詰めればいいことでしょう。
はっきりと、そんな気はないと否定しておくためにも、もう一歩進んてで聞くべきだったのでは?と
私は思います。
うちの身内もそうです。
子供の学校からプリントが届いて、その処置の意味がわからないので、学校に行って担任に尋ねたら
「そこに書いてるでしょ。」と言われ、唖然としたまま帰ってきたと言うのです。
この先生は親をなんだと思っているのでしょう。子供は確かに彼の生徒ですが、親は生徒ではありません。
その親に向って「木で鼻を括るような」この対応はなんということでしょう。
でも、すごすごと帰ってきた身内にも私は物足りなさを覚えています。
「このプリントの意味が判らないからお尋ねにきているのです。」私ならそのあとに「私の子供はあなたの
生徒ですが、私は生徒ではありませんよ」とニタリと笑って帰りますけどね。(笑)
そして身内はふつふつと怒り、誰かに共感を求めているのです。
もちろん私は彼女の満足にはなりません。身内に共感しないのですから。
この二つの事柄の共通項は「問いたださないこと」です。
言われたことを正面からばーんと受け止めて、そのまま咀嚼も吟味もせずに呑み込んでしまって
その消化不良に対処しょうと、自分に一番やさしい胃腸薬を探しているような気がします。
一番やさしい胃腸薬は「いいね」でしょうね。「わかるわ」という優しい共感なのでしょうね。
私はこれを「見せかけの愛」だと思っています。
寄り添うという言葉に置き換える人もいますが、これだけで義姉の真意や、担任の本心が判るでしょうか。
私なりの意見や解釈を言う前に、もう一歩踏み込んで聞いてみたいと思う私は、身内曰く
共感力のない人間なのだそうです。
そんな醒めた目で見る発言小町は今日も「みせかけの愛」で一杯です。。。
(なんだかホラー映画のエンドロールみたいになっちゃいました・・)