片隅からの祈り
きな臭い世界情勢は、じわじわと足音高くなっているようです。
先日来、ロシアの反政府派のナワリヌイ氏の刑務所での不審死に世の中は揺れていますが
こういう出来事を見ていると、歴史は繰り返すという言葉は本当だなと思います。
ナワリヌイ氏の母上が遺体の引き取りに行ったけれど、応じてもらえなかったなどと
いうのを見聞きすると、私などは三浦綾子氏の「母」を思い出さずにはいられません。
薄くて小さな文庫本の中に、当時の世相と思想と、そして母の愛がいっぱいに詰まっていました。
まだ若く、母の愛というものがなにものであるかも知らない若造時代の私にも、十分に胸に
迫るものがありました。もちろん三浦氏の筆力もあるでしょうが、小林多喜二という、あの時代の
ヒーローであり、犠牲者でもある男の母の深くて、決して癒されることのない静かな怒りと
暗黒の諦観を受け止めたものでした。
それはもう何十年も前の話で、史実はさらのそれよりもっと前の出来事です。
でも、日本のそうした時代の出来事が、いままさにロシアという、日本の目と鼻の先の国では
起こっているということです。
いいえ、ロシアだけではありません。
つい何年か前には北のあの国の権力者の兄も彼の地で謀殺されましたし、中国も不審死は何回か
報道されています。ロシアはその比ではない回数報道されていますけどね。
テレビのコメンテーターの多くは、したり顔でさまざまなことを言っていますが、つい100年前の
日本だって変わらぬ事をやっていたし、もっと穿って言うなら、今だってそれはないと言い切れますか。
対岸の平和主義者のようなコメントだらけですよね。
私はないと信じたいけれど、この年になれば「絶対にない」なんてことはないという真理は
よく判っています。
自分の無力はよく判っていますが、もしことが起こった時に、自分はどうするか・・
一時期これに没頭していたことがあります。
子供が徴兵世代になろうとしていたころです。
亡夫は、そんな私を杞憂と笑っておりましたが、その時に私は彼の父親の愛と責任を
疑いました。本の読みすぎと笑われたこともありました。
今ここでこんな話をすると「危ないおババ」と後ろ指さされそうですが、危機感はいまも
同じです。いやむしろ増加しています。
ただ、今は自分が身を挺して守らねばならない人間がいなくなっただけです。
子供はもう「子供」とは言えない年になり、それぞれに独立しております。むしろ
彼らに密かに労わられる時代になったということでしょう。
ですから、私はいまどの時よりも身軽で、元気です。(肉体的衰えを除外していうならば)
ですからこんな田舎の片隅から、誰にも届かなくても、どうぞ不自由な世の中が
来ませんようにと祈り続けます。。。