死刑告知

2024年04月15日

毎日二句と決めている俳句の季語がいつしか初夏になっていました。

連日そういう天気が続いているということなのでしょう。本当に春と夏のない日本の

四季が当たり前になりました。

先ほど、ネットニュースを見ていると、死刑告知が昔は2.3日前で、その間に死刑囚は期の

食事を希望したり、家族と面会できたり、自分を振り返ったりする時間が得られたそうです。

それが、前日の執行を知らされた死刑囚が当日の朝、その恐怖に打ち勝てなかったのか自殺して

しまって以来、執行は当日の朝になったという記事でした。

そしてそのことを、憲法違反だと実在の死刑囚二人が告訴しているというものです。

 

そのことに対する意見は当然三々五々。

しかし、大概は「他人の命を勝手に突然に奪っておいて、自分はそれに備える時間が欲しいなんて

なんて身勝手」というものだったような気がします。

被害者の側に立てば尤もなことで、この時点で罪の意識とか呵責とかの意識の何割かは消えていると

思うという意見にも首肯するところがあります。

 

思えば、私も若き頃は死刑反対論者でした。

死刑は国による殺人と思っていました。リベラルな自分に酔っていた頃です。

いま、死刑賛成論者に豹変したとまでは言いませんが、この年になって、例え他人事であっても

決して許してはいけない人種がいることが、判ってきました。

更生とか、過ちとかでは決して心が揺るがない種類のヒトです。

そして、近年は死刑を望む輩まで現れました。

死刑を望むことで、自らのアイデンティティを証明相とする輩。死ぬことで苦しみから

逃れようとするも、その勇気がないために他にそれを求める輩。

むしろ死刑になることを希望している輩たちです。

 

そんな輩たちの犯罪がこれでもかと世間を席捲し、その度に唖然としたり、呆然としたり

脱力したりとした私の何年間かは、私の中から薄っぺらいリベラルと死刑反対論の

ホンネを剥き出しにしたようです。

彼らが生きながらえて、仮に更生することがあったとしても、それを判断できるものは

誰なのか。国か、裁判所か、遺族か・・・

そう思い詰めてみると、私などに結論がでるはずがありません。

 

自分に残された時間が少なくなったせいか、今までの経験や現実が私を動かしたせいか、

そのどちらもが原因なのか、私の意識は変わりました。

死ぬことは処罰ではありせん。贖罪でもありません。

死ぬことは、その方法の如何にかかわらず無になることでしかないと私は考えています。

それをもって、贖罪にも浄化にも昇華することはできないと思っています。

人の命を奪うということは、そういう何にも代えがたい、どんなことをしても取り戻せない

行為であることを、罪人本人に知らしめることは、必要なことであることは判っています。

でも、どうすればそうできるのかという事に行きつくには、遠くて永い道が続くばかり

です。

ヒトの生きる道は、なかなかに複雑で困難です。たまにはこうして自分の生きる道を

見失わないように、確認しておきたいとおもっているのです。。。

 

 


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