悔恨の12月
12月になりました。昨年はいろいろと雑事が重なり、この時期は近年まれにみる忙しさ
でしたが、それもこの一年で収まり、いつもの、いやいつもよりはもっと穏やかで静かな
12月を迎えました。
年賀状も今年で一応おしまい。お歳暮関係も終了しました。あとは、気持ちと状況に応じての
贈り物か義理はりだけでと、いうことです。
かつての私の舅だった人は、この「義理はり」に文字通り命を賭けていたのではないかと
思うほどの奮闘ぶりでした。
自分で「義理はりのために、年金生活になってもアルバイトがやめられない」と言っていたように、
ずっと働き続けて、親戚一同の慶弔期日を姑に記録させ(今なら自分でしろよと突っ込まれる処
ですがなにしろ古の昭和の時代です。みんなこんなものでした)義理はりは欠かさぬ人でした。
口癖が「自分の葬儀には盛大な花輪で送ってほしい」でしたが、息子たちよりずっと長生きして
コロナの前でしたが、「家族葬」で見送られたのは、お気の毒なことでした。
私は、もうどうのこうの言える立場ではありませんが、それまでの「義理はり」を慮ったら、
例え、虚礼とカゲグチを叩かれても、それは全うしてあげるべきだったのではないかと、
心の隅でちょっと思います。
正直、決して良好な関係ではありませんでしたが、こうして月日がたつと、お互いに冷静に
あの日あの時のことを思い出せるものです。
・・ただ、悔しかったことは、そーだったねという心境には絶対なりませんけど・・
こんなことを思い出すのも、12月だからなのでしょうか。
私は、世の中が不穏に殺伐としていると思っていますが、凶悪犯罪は昔もあったし、
数的にはむしろ減っているとか、今と昔を比べても数値的には・・とよく反論がありますが
どんな数値を並べられても、私の感覚の中では、世の中はますます住みづらくなっているとしか
思えないです。
自分の生きてきた軌跡を振り返っても、これはひどいと思う事件がごろごろしています。
体験はしていないけれど、世界中はそこここできな臭い。
政治家は嘘つきばかりと非難してきたけれど、いまはネットという虚像に覆い隠されその
実像が掴めない。
そして世に蔓延る「闇バイト」に始まる犯罪の数々。
何も信じられない時代の始まりと思って生きよと宣告されたような気がします。
私らはいいですよ。もうそう先はない。
奇跡的に超長生きしても、社会から一線を引いて生きるのと、その社会で生きるのではその
影響力は当然ながら全く違いますよね。
孫・子の時代に、彼らはどう生きるのかと思うと、こんな時代にしてしまった責任と後悔と
申し訳なさに一瞬は自らを咎めますが、あとは任せるしかないのです。
日曜日の陽だまりの中で、こんな私でも振り返ってみることはあるのです。。。