沖縄と私

2025年05月04日

さて、GWも半ばです。

私はここでも何度も公開しておりますが日記を付けております。五年日記だったものが

私に断りもなく突然三年日記になっても、高橋手帳を恨むことなく(いや、多少は罵りましたが)

それでもやめることなく日々書き綴っております。

それは長く続いておりますし、こうして皆様に公開するようなものでもないので、

ホンネであったり、誰にも言えないことをさらりと書き残していることもあります。

私の死後、ともかくこれを誰よりも早く処分せねばと息子は言っておりますが、私も

そうした方がいいと思います。

彼にも娘にも読まない方がいいことを残している危険性は十分に考えられます。

なにしろ「爆弾おババ」ですからね。

もしも、自分にそんな余力が残っての死なら、その間に私自身が処分するつもりです。

そんなものでも、その夜に記しているとふと上段の去年の出来事、その上の一昨年の

出来事を読んでみると、これがまた見事にリンクしているのです。

 

同じころにみんなとBBQをやり、旅行に出て、季節のものを食べて・・しかも天候までほぼ

一緒。寒いなと感じた春の日は、去年も一昨年もやっぱりその前後に同じように感じています。

ですから、今年は暑い。寒いという世間の感想を私は信じていません。多少の誤差があるにせよ、

毎年毎年の自然の変化にそう大きなものはありません。

もちろん、大地震とかの天変地異は除いてですよ。

 

そう思ったら、大自然の中で生きている自分は、いいことも悪いこともあったり、喜怒哀楽に

振り回されたりしても、全体で見ると、そうたいしたことはないと思い至ります。

これを、自覚というのか悟りというのか、はたまた諦めと言うのか・・

ま、どれであったとしても、こうして元気に今を生きています。

それだけで充分です。日記を日々付けていると、そんな気持ちにさせてくれます。

 

今日のネットニュースで西田参議院議員が沖縄ひめゆりの塔記念館で「沖縄の戦争史は

歴史の書き換え」と発言して争議をかもしているそうです。

彼は櫻井よしこさんらの日本の「美しい日本の憲法をつくる国民の会」に所属している所謂

右派だそうですが、どうしてこうも偏った意見を当時地で吐くのでしょうね。

意見は自由ですし、それぞれ自分の思いはあるでしょう。でも自分の立場、その場の歴史と

空気を考えたらこんなことは、たとえ腹に一物あっても口にはしない。

それが大人の嗜みであったのに、なんとも考えのないやつ。・・(失礼。口は悪いんです)

相手に不快感を与えて、どうして自分の意見が受け入れられようかとは考えもつかないのか。

 

私は沖縄好きでもう10回は行っています。

最初は花も恥じらう(笑)新婚旅行で、その時まだ車は右側通行してました。いまではこれをネタに

現地の人にマウント取ってますけどね。(なんのために??)

そしてその時、摩文仁の丘にはじめていきました。今みたいに整備されて公園ではなく

断崖にはぐらぐら動く木の低い柵があるばかりでした。

海は青く、濃い茶色の断崖は覗き込むのも憚られる峻烈で海からの白いしぶきを受けていました。

とても良い天気で、海を背中に私は何枚も写真を撮りました。

ところどころに当時もあった供養塔の傍に立つても何枚か撮りました。

そのまま、海軍壕にも行きました。

周りは沖縄特有の大きな墳墓でその中に、入り口があり、当時は崩れかけた土壁を補修したような

入口で奥に行くたびに、空気が薄くなるような息苦しさがありました。

そしてひんやりと冷たい空気。

牛島司令官の手紙も島田県知事とのいきさつも看板にありましたが、なんともそこに居ることが

落ち着かない気がこみあげて、早々に引き上げました。もちろん何枚かの写真は撮りました。

 

そして新婚旅行が終わり、当時の写真は現像に出します。2.3日後にそれを取りに行って、

かなりの枚数の写真をばらばらと見て・・???

沖縄の写真がなぜか少ない。もう一度確かめると、あきらかに戦跡の写真がありません。

「おじさん、写真少ないんですけど」と聞いてみると

「あ、それね。焼いてみたけど、ネガ真っ黒よ。」と、写真屋のおじさん。

同封のネガみてみると、シルエットが並んだなかに突然の真っ黒が5.6枚。そしてまた

何枚か挟んで真っ黒が4.5枚。

・・・前半の真っ黒は摩文仁の丘で公判は海軍壕です。

 

そしてこの話にはまだ続きがあります。

それから四年たって、今度は家族みんなで行きました。息子も娘も連れてです。

前回の写真のことは半信半疑でしたので、疑り深い私はまた行きました。摩文仁の丘。

今の公園に整備することに着手したばかりです。

ただ、もしも何か禍々しいことがあれば厭だと、子供は入れずに私だけ写真に収まりました。

そして海軍壕にも行きました。でも海軍壕ではなぜか途中で気分が悪くなり、早々に出て

きたので写真は撮って居ません。そして帰宅して現像にだしました。

 

はい。ご想像通り、今回も摩文仁の丘は一枚も撮っていませんでした。ネガも真っ黒。

さすがに、私の手も震えました。

そして写真屋のおじさんに聞きました。

「おじさん、ここって四年前にも撮らなかったのよ。こんなことってある?」

「あ、そーいうことね。時々あるね。そういうこと。もうここでは撮らない方がいいよ。

もし撮っていたら、とんでもないのが撮りこんでるかもしれんよ。」と、なんでもないことのように

さり気なく言うのです。

・・・もちろんこの言葉を私は深く胸に刻みました。

 

さらに、後日談ですが、前夫が亡くなり、子供たちと三人で沖縄に行きました。

その時、歴史に興味しんしんの息子に請われて、海軍壕に行きました。私は前回のことが

あるので入りませんでしたが、二人で入って、早々に二人とも出てきました。

「どーしたの?」

「なんか気持ち悪い」と息子。そしてやにわに嘔吐です。もう大学生でしたが、もちろんなんの

病気も持っていません。隣の墳墓にも少しかかって、お水がなかったので、持っていた

ペットボトルのお水で洗いました。その節は、大変失礼なこと致しました。

 

それ以来、私たちはずっと戦跡をさりげなく避けていました。

それが、今話題のひめゆりの塔記念館が出来た時(それまで、ひめゆりの名を冠した

こういうものはありませんでした)家人がぜひ行きたいというので行きました。

隠れていたというガシュマルの大木の根本のガマや、彼女らの持ち物。

そして彼女らの手紙と日記の数々。

ずっと読んでいると、胸が苦しくなります。

そのあまりのリアルと現実と残酷に。

普段活字を敵と思っているかの如く嫌う家人も一生懸命読んでいます。そしておもむろに顔を

あげて「気持ち悪い」と真っ白な顔をして言います。

やっぱり来たか・・

 

それからは、はっきりと避けています。

南部では斎場御獄や沖縄ワールドには生きますが、南部戦跡には足を向けません。

私には、沖縄戦で亡くなられた方が仮に何かを訴えたいと思われても、それを受け止める力も

癒してあげられる力もありません。

それが判っているので、それを求めている方が大勢のところには、自分からは足を向けない

ことにしています。

これが逃げと言われれば、そうなのですが、少なくとも今回の西田議員のように、自分の価値観を

押し付けることはないようにしています。

 

ここ(沖縄)では、自分の意志よりも、ここに住む地霊と風土の意見が最優先です。

大田海軍中将の残した「沖縄県民よく戦えり、県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを」と

残した電報への私なりの応えです。

 

そしてその真っ黒に一部分を残したネガは、どこに仕舞ったのかわからなくなりました。

時々、思い出したように出てくるのですが、また行方が判らなくなります。これも不思議な

ことですが、できれば私の日記を始末するときに、それも処分してもらいたいなと思うのです。

 

こんな不思議な因縁ですが、それでも私は沖縄が大好きです。

海も空も風も・・・あの歴史のすべてが好きです。

もちろん「テンペスト」も大好きです。。。

 

 


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