8月15日の母

2020年08月17日

私は8月15日を「敗戦記念日」と呼んでいます。いつからこうなったかは

覚えていませんが、世の中が「終戦記念日」なんてこの日を称するのは、

言い訳やごまかしの類であると思っているからですが、最近は特に

この時代のいろいろな出来事が、知りたくて仕方がないのです。

戦後50年が過ぎたころから、時代の証言者がいなくなる危機感を煽っていましたが

それは当たり前のことで、今更何を言う・・というのが私の素朴な感想です。

ただ、このころからアメリカの公文書館の資料が、次々と公にされて今まで知りえなかった

相手側からみた日本。記録に残らなかった日本の敗戦が少しづつ知らされるようになって

きました。

 

私の亡母は市内の真ん中に住んでおりましたので、空襲経験者です。

国道と旧国道が交差する市内の真ん中にある、今では最古の地下歩道の場所は、

その当時は空襲のあと、焼死した人たちが何日も堆く積まれていていたのだと母は

通るたび何度も何度も繰り返していました。

 

ですから、どんなに暑い日でも、雨の日でも母が、その歩道を利用することは

ありませんでした。

今の事務所は、実はそこに近いのですが、その話を聞いている私も、

そこを通ることはありません。霊だと怨霊だとかを言っているのではありません。

そこは母にとっても、私にとっても神聖な場所で、侵してはいけない処だと

思っているからです。

 

当時20才前の母は父親(私の祖父)と一緒に、翌日田舎に疎開しょうと自転車に家財を

積めるだけ積み込んで寝入ったところで、空襲警報が鳴ったそうです。

母は子供時代から走るのが早い、すばしっこい子であったので、気が付いたら

外に飛び出していたと言います。

父親を振り返りもせず、自分の身一つで逃げ出したと言います。

 

母の母親はその一か月前に亡くなっております。10年以上リュウマチで

寝たきりの生活をしており、母は小学校も碌に通えないまま、その身の回りの

面倒を見ていました。

娘の私が言うのもなんですが、うちの母は良くも悪くも「ふつーの市井の母」です。

竹槍訓練にも出ていたそうですし、米英は本当に「鬼畜」と思っていたらしいです。

母親の面倒を見るのがいやで、呼ばれても呼ばれても返事をしなかったりして

その母親が死ぬときに「お前のこと呼びに来てやる」と言ったらしい逸話もあるくらいです。

(一人娘に面倒みさせておいて、そのセリフもどうかなと今なら思いますが、当時の母は

それが怖くて、母親の死後夜はなかなか一人でお手洗いにいけなかったそうです。)

 

その母が、いつも空襲の話のあとで言うのです。

「お母さん(私の祖母です)が、空襲より先に死んでくれてよかったわ。あの時

まだ生きていたら、私は絶対そのまま置いて逃げる。お父さんも、お母さんを乗せようと、

自転車に積んだ荷物下ろしていたら間に合わん。二人とも死んでたやろうな。

私は親を見殺しにするとこやった。」

とてもリアルな懺悔に私は言葉を失いました。

 

母が亡くなって20年になりますが、いまでも私はこの日がきたら思うのです。

もしも母親(祖母)が、その時まだ生きていたら、母は私の母ではなかったような

気がします。

我儘で唯我独尊の母でしたが、両親を見殺しにしてまで、平然と生きていける人では

ありません。

そういう意味では、8月15日は、私にとって母を想う日になっています。

そして戦争を知らない世代として年ごとに太平洋戦争のひとつひとつの出来事を

より深く、より多く知りたいと思う気持ちでいっぱいになるのです。。。

 

 

 

 

 

 


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