本音

2021年07月01日

七月になりました。今年も私の大好きな夏に突入です。

なにやかやとあっても時間は公平に過ぎてゆくものです。春が終わると

ちゃんと夏が来ます。これで十分。

なにがって?   日ごろの憂さが・・です。これで十分おつりが来ます。

 

朝食のあとでなにげに家人に言われた言葉が、纏わりついて離れません。

私のことを「ぼやく人間」とあやつは言い放ったのです。

 

大阪の方で、それなりの年齢以上の方なら、お判りと思いますが、昔

ぼやき倒す漫才の「人生幸朗」さんとおっしゃる方がいました。

なんでも、愚痴やぼやきの対象にして、歌謡曲にまで突っ込んでいくという

漫才で、今でも時々西川きよしさんなどが「ぼやきの人生幸朗師匠みたいやな」

などとお名前を挙げていらっしゃいますが・・

私は日々の出来事をぼやきにぼやき続けているのだそうです。

 

言われて思い当たる節は多々ありますが、でも、これはぼやきではないのです。

私は物事を一方的には見ないことを信条にしております。

必ず裏から見ると、表の隠し事がつらつらと見えてくるのです。

そしてそれを口にすると、家人にはそれが「ぼやき」と聞こえるらしい

のです。

 

それなりに長く生きてくると、物事の裏表は月日に比例してよく見える

ようになります。

良いことをそのまま受け入れて生きる生き方もあれば、その裏を探って

自分や周りが傷つかないように用心しておくこともあるのです。

家人は私のことを、自由奔放になんでも言って、思うように振舞って

自由でいいよね。今度生まれてくるときは君になりたいよと言いますが

私も、そうです。今度も「私」になりたいです。

ですから、家人は必然的に私にはなれません。悪しからず・・・

ま、それはどうでもいいのですが、日々私がこうして裏分析しながら

生きているので、その恩恵で自分も傷つくことから救われているということを

家人は自覚していないのです。

 

 

娘の、四才の次男を相手に「一番好きないーちゃん」と言われて、世界中の幸せを

得たような気持ちになっているようですが、それは四歳児に一番甘い人と指摘

されているだけのことなのです。

ちなみに私は4番目なのだそうです。(自慢しているわけではありませんが・・)

 

私は四歳児相手にガチ勝負しますから、彼が機嫌のよい時には遊びのご指名を

受けますが、そうでないときは相手にもされません。

私が相手するときは「一回だけよ」と言っておくと、本当に一回だけと判っているので

リクエストはしませんが、家人が相手だと「もう一回」が延々と続きます。

こんな気分屋の四歳児の好感度№1になって何が嬉しい?

これを言うと、家人は「嬉しいよ。なれない奴には判らんやろうけどね。

なんたって君は4番目やからね。」

 

悔しいわけではありません。羨ましいわけでもありませんが、そういうことで

勝負しょうという気持ちの浅ましさが鬱とおしいのです。

そんな家人に「ぼやき」と指摘されて、気にはなりませんが、腹は立っています。

羨ましくはありませんが・・ちよっと悔しいのは確かです。。。

 

 

 

 

 

 


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