隔世遺伝
中学生になった娘の長男が昨日、久々にやってきて、私の書架から何冊か本を
取り出して持ち帰りました。
最近は読書傾向がよく似てきたのか、私の本をよく物色しています。
この時代の読書はとても大切だと私は思っています。思い返せば、私も同じ時代に
読んだ本は忘られません。それどころか今も、私の書架の一番上の段に鎮座しています。
この本を買った時のことは忘れません。欲しくて欲しくて堪らなかったけれど、上下巻の
それは確か定価が上下で1160円(時代が違いますので、これは相当な金額でした。私にとって。)
お年玉を握りしめて、1月2日(当時は本屋さんも元日はお休みしてました)開店を待ちわびて
行きました。お店は今も同じ場所にあり、内装は何回も変えていますが、当時この本が
どこにあったかも、今でも克明に覚えています。
嬉々として読み漁ったあの頃。大切にしていたのに、今は亡き夫の父に請われて貸したら
カバーが破られて返された時には本気で殺意を覚えました。実行はしませんでしたが、その
恨みは当人が亡くなった今も残っています。
話が恨み言になるとどうも長くすみません。
そんな年月を経て、私は母になり子を産み育てましたが読書状況は変わらず。
しかし、今でこそ息子も娘もそれなりに本は読みますが、子供時代は全く読みませんでした。
我が家には本がごろごろしていましたけれど。
息子など高校の三年間を「銃口」だけで読書感想文やりすごした強者です。
そして今、娘の長男は隔世遺伝か、頗るの本好きになったようで、私の胸は躍ります。
同じ本を読んで、感想を交わす楽しさは言いようもありません。
娘はなんにもせずに本ばっかり読んでると叱りますが、それはそのまま若き日に
私が母に言われたことそのままです。
本を読むことが全てとは言いませんが、すくなくとも本を読んでいると
想像力は膨らみます。
自分が体験しなくても、見たり触ったりしなくても、想像の中で自由に大きくしたり
小さくしたり裏返したりできるのです。
もちろんその上で、実際に触れられたら、それはもっと楽しくなります。
想像の世界に生きる自分は自由です。
想像の世界に逃げ込むのではなく、想像の中で遊ぶことができるようになるのです。
それがどうしたと言われるかもしれませんが、これは一度体験したら判ります。
なににも惑わされなく、年も性別も環境も超えて、自分の世界を作ることができるのです。
こんな愉しみを私は娘の長男と共有しょうとしているのです。
これほどの幸せがあるでしょうか。
私は、自由に本が買えるように、仕事を続けていますとよく人に言います。
これは本当のことなのですが、最近は彼の分も頑張ってやらねばと思うようになってきました。
いつか、彼から「あーちゃん(私のことです)。これ読んだ?」と私の知らない作家さんの
私が読んだこともないような作品を教えてもらうことができたら
私の読書人生の最高の時を味わえることになるでしょう。。。